(出典: thebinarystring)
人は何かを批評するとき、
作品そのものよりも、作者が誰なのかを気にする。
作品の素晴らしさよりも、それを誰が作ったか、
誰が描いたかが大事なんだ。そしてそれがダリやピカソだったら、
大して作品を見てもいないうちから『なるほど、これは中々』
なんて言って、無条件に褒めるんだ。ぼくは、本当にうんざりする。
(岡本太郎)
この名言も最後の(岡本太郎)があるかないかで評価が変わるんだろうなあ
(via katoyuu) 2007-12-13 (via gkojay) (via vichy) (via kondot) (via lunaryue, samidare) 2009-07-06 (via gkojay) (via mnak) (via petapeta) (via yaruo) (via fukumatsu) (via yuugurenoboti) (via konishiroku) (via shortcutss) (via yellowblog) (via konishiroku) (via yaruo) (via radioya)資料となった写真を撮ったロケスタッフの方は、恐らくライダー・ウェイバーの位置を決め、
それを基準点にして、あたかもそこにライダーたちがいるかのように撮っていたはずです。
これほど基準がブレない作品は他に類を見ません。
他の作品のロケだって同じように撮っていることは撮っていると思います、
しかし殆どの場合がいい加減。
例えばこの街灯の下のシーンなら、他のアニメだとこの直後には5mぐらいずれた背景とかになってたりする。
一見同じように見えても、そこからじゃ絶対見えないだろうそんなものって背景だったりするんです。
それがこの作品だと1m単位でしかずれない。いや、ずれているところが無い。
これはほんとに凄い事ですよ。私こんな作品初めてですww
こんな事があり得るんですかね、予めどういうふうに見せながら展開していくか、
把握していないと合わないんじゃなかろうか。
それか、元々正確な写真を正確なままアニメにできる優秀なスタッフあるいはそうできるシステムがあるのか。
劇場クオリティで作ると言ってましたし、相当時間的余裕を持って作られたというのが実際のところかも。
時間さえあればTVアニメでここまでできるんだと新たな可能性を提示してくれました。
ufoさん超COOLだよ。
ここに出てくる100人ほどの原始人役の人たちを選ぶのに、大貫さんがいちいち面接したらしい。
「こんなロングの映像で、ひとりひとりの顔なんか見えないんだから、テキトーでいいじゃない」
と言ったら、
「とんでもない、そういうところから表現は壊れるんです」と言っていた。
そういえば、「ガリバー旅行記」を書いたスウィフトも、こう言っていたっけ。
「物語はそれが架空のものであればあるほど、細部が精密に描かれなければならない」むむむむー
(出典: kogumarecord)
江戸ッ子の喧嘩は、現代の都会の巷に見られる血なまぐさい決闘とは大分ちがって、決闘ではなしに口喧嘩だった。
立て板に水を流したような、いわゆるタンカを切ることが江戸ッ子の喧嘩の時に出る言葉だったのだ。江戸ッ子は本気に怒った時でも、衆目の前でいきなりなぐりあったりはしなかった。
まずタンカを切る。
そのタンカが、人の意表をつくとてつもない言葉を発した。
すると、この言葉が聞いている周囲の町人たちをどっと笑わせた。
目的はここにあった。相手側も負けまいとしてタンカを切り返す。それがまた相手の意表をつくとっ拍子もない言い方をする。そして、このタンカに見物人が笑う。
つまり見物人の笑いの声、あるいはこれにともなう弥次馬のかけ声の多少によって勝負は決したのだ。
笑われることは、江戸ッ子にとって大きな精神上の損傷であったと見えて、笑われる側に追いつめられると、すごすごとその場から姿を消していくのが常だった。もし、覚えていろ、といった捨て科白ぐらいで止どめないで、腕力を振りまわすようなことがあると、かならず弥次馬の中から仲裁人が飛び出して、
そんな野暮なことをするなとたしなめられる。
江戸の華と言えば喧嘩だが実はほとんど口喧嘩だけで決着した | Kousyoublog
「粋 ⇔ 野暮」ベクトル復活、非常に希望
人間は脆くてカオスだから、こういう基準がないと陰湿や陰惨なカオスにすぐ落ち込む。「どんなに力や富があっても野暮なやつはダメ」というみんなの共通意識が、この頃はきっと自浄作用に繋がっていたんだろうな。